サッポロ一番がなかったら、いまの僕はありません。
袋麺のインスタントラーメン、サッポロ一番みそラーメンと塩ラーメン。
このふたつが、経済的にも精神的にも頭脳的にも誰よりも貧しかった僕の人生を救ってくれたのです。
38年前、京都の同志社大学を卒業して、六本木の広告制作会社に就職した僕の手取りは月額10万円。
元麻布のオーストリア大使館の目の前の、窓から東京タワーが臨めるそのひと間の家賃が2万7000円。
給料日に六本木の青山ブックセンターで5万円くらい本を買うと、残りは2万3千円。
1日に1000円も使えませんでした。
同僚たちが昼食を外食していたのが信じられませんでした。
40年近く前もランチは1000円近くしていたからです。
夕ご飯も食べなければならないのです。
就職するちょっと前まで体育会バスケット部で練習してきた肉体は食欲という本能も人一倍活発でした。
ここで頭がよければテレビのバラエティ番組のように食材や調理方法など工夫したのでしょう。
が、そんな頭はコピーライター修行に使うことしか考えていなかったから、選択肢はインスタントラーメンしかありませんでした。
カップ麺の値段は袋麺の2倍くらいはするからとても食べられませんでした。
みそにするか塩にするかという選択だけが、僕に許された贅沢だったのです。
モヤシやキャベツやタマネギなどの野菜をいれて煮込み、それをおかずにご飯をいただく。
肉などもちろん高嶺の花でした。
いまのほうがあらゆる食費は安くつくのではないでしょうか。
昔の方がいろいろ高かったようにも思うのです。
エンゲル係数という言葉も聞かなくなりましたが、いくら食費を抑えても、収入が低いぶんその数字は決して低くはなかったのです。
僕の人生にはファミレスの記憶が一切ありません。
とても高くていけなかったのです。
ファミレスにいけるひとたちに嫉妬もしていました。
そのコンプレックスでいまもファミレスにはいけないままでいます。
月に2万3千円でいったいどうやって生活していたのでしょう。
でも、ずっと会社にいたし、飲みに行くなんて発想も誘いもなかったから使うのは食費だけ。
大学の先輩と一度飲みにいったとき、「気を使わずに、金を使え」といわれました。
ひどく傷つき、二度とそういう誘いにはのりませんでした。
僕がどうにか人並みな生活レベルになったのは、20代も後半になってから。
それでも30歳を過ぎるまで、サッポロ一番は僕の主食といっても過言ではありませんでした。
そんな時代からサッポロ一番、サッポロ一番みそラーメン、サッポロ一番塩ラーメンの味は一切変わっていません。
麺も生麺ではなく、いわゆる乾燥麺で、生麺タイプの乾燥麺が生まれているいまも、昔のままの油揚げ麺なのです。
それでも、いまも心の底から美味しいと思います。
美味しいものを食べる幸せくらいの幸せはありません。
だから僕はいま、サッポロ一番を食べるとき、毎食幸せの頂に立つのです。
ところで、このサッポロ一番は、麺も、スープもそのメーカーであるサンヨー食品さんは、怖くて変えられないといいます。
マーケットが受け入れてくれるかどうかわからないからというのがその最大の理由らしいのです。
あのカップヌードルも、派生商品は数限りなく生まれていますが、オリジナルの元祖カップヌードルは生まれてから40年以上、味もパッケージもほとんど変わっていないといいます。
自らの考え方やマーケティングに固執せず、マーケットに委ねる。
できそうで、できることではありません。
もちろん僕も、ついつい卑近な自分の考え方とかに拘泥してしまったりします。
自己重要感など抱かず、マーケットの嗜好に委ねるなどと口にしながら、そのマーケットの嗜好というのは僕自身の見立てだったりするのです。
時代が変わっても、変わらず生き残れる存在になる。
年齢を重ねてシニアになったいま、僕はこのサッポロ一番のような存在になることが生きる目標のひとつです。
そのことを忘れないためにも、月に1度はサッポロ一番を食べています。
みそにするか塩にするか迷うことはあっても、不思議なくらいその味に飽きることも、食べているときの幸福感が薄れることも決してありません。。
そして、きっとこれからもサッポロ一番は、夢見る若いひとを、そして僕にシニアをサポートしつづけるに違いないのです。