からっぽな自分を誇ってみる。

『般若心経』に
「皆空」という言葉が
あります。

 

「皆空」とは、
「皆」が「空」であるという
言説のまま、

 

すべてのものが
「空」である
という意味です。

 

そして、
この「空」を

 

どう解釈するか、
どう捉えるか、
どう理解するのか
ということこそ、

 

この『般若心経』の
本質に

違いありません。

 

「空」は、
なにものもない
空っぽな
空白という空間

 

とでも
解釈すれば
いいでしょうか。

 

けれど、
それは決して
ただの空虚ではない
ところに、

 

『般若心経』の教えの
すべてが凝縮されているのでは
ないでしょうか。

 

「空」は、
なにもないという意味ではなく、

 

むしろ、
無限ともいえる
宇宙が広がっている。

 

一見、
ひとをカタチづくっている
「五蘊」も、

 

実はすべて
「空」で
そこに本質はない。

 

だからこそ、
ありとあらゆる
苦痛も、苦難も、苦厄も

 

いつかは
消えてなくなるもの。

 

「空」には
また、

 

とらわれない、
こだわらないという
意味も

 

こめられていると
いわれています。

 

つまり、
一切のことに
とらわれず、
こだわらないことで

 

身も心も
解き放たれることが
できるという
教えなのです。

 

いまこの瞬間も
「空」ならば、

 

過去も、
未来も、
「空」のなかでは
つながっている。

 

これまで犯してしき
さまざまな過ち、

 

取り返しのつかない
後悔も、

 

「空」のなかの
できごとのひとつとして

 

そこに関わった
すべてのひとも、
自分自身も
許してあげる。

 

「空」は、
けっして
なにもないことではなく、

 

「空」のなかにこそ、
すべてがある。

 

「空」のなかにこそ、
無限と、
永遠がある。

 

それこそ、
「皆空」という
教えなのです。

 

超訳詩『般若心経』「皆空」

  
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